2011年2月26日土曜日

噪音

昨晩、新高円寺駅の近くにあるバー「JUKEBOX」での事から。
蚕糸の森公園へトランペットと尺八の練習をしに行く途中にあり、「黒人音楽酒場」と書かれた看板と入口付近に並べて貼られたソウルシンガーのポスターが気になっていた店で、その厳つさから敬遠していたのだがようやく入ってみた。店内の壁はサイン入りの写真やレコードジャケットだらけで、かかっていた音楽はソウル。客は私一人である。ソウルはあまり聴かないのだが嫌いというわけではなく、I.W.ハーパーのロックを傾けながら普通に聴いていた。ポツポツとマスターとおしゃべりするなかでトランペットを練習していることを話すと、ソウルからジャズに変えてくれた。Miles Davis/Kind Of Blue のレコード盤。CD ではなくレコード盤だったことで、大変に沁みた。

そこで、レコード盤で再生する場面を思った。
私にとってまず馴染みがあるのはクラブミュージックの DJ である。この場合は CD にない音圧や音響特性が取り沙汰される事もあるが、主には曲と曲を繋ぐ時のピッチ補正や、スクラッチなどによる積極的な音作りなど、レコードとレコードプレイヤーによる機械としての側面がクローズアップされる。CD プレイヤーが発売されるようになってすぐにはこういった用途に使えなかったが、パイオニアから CDJ シリーズが発売されると徐々に移行していき、今では USB メモリや SD メモリを直に挿せるミキサーや PC に繋ぐコントローラーが充実して機械でなくなった。音がクリアで持ち運びが簡単、操作性に遜色が無いどころかテンポ検出は元より波形表示など、そのメリットは大きい。音量は大きく、クリアに。ノイジーな音楽を再生した場合、記録されているノイズをクリアに再生するのである。レコード盤である必要性が低くなって来た分野である。
もうひとつの場面は、コレクションである。今でこそ CD や iTunes などのオンラインで再発が相次いでいるが、作品が作られたその当時にレコードを購入して今でも大事に聴くというもの。老舗のクラシック喫茶やジャズ喫茶で聴かせてくれるものがこれにあたる。ここでも例えば PC に取り込んでプレイリストに並べて再生ボタン一発でそれこそ24時間盤の交換要らずという使い方も想定できるが、それは手間だし、何より無粋という意識が働くかもしれない。既にある物を、あるがままに長年聴かせて来たのがレコード盤となる。音量は控えめ、レコード盤ならではのノイズが乗る。

タイトルの「噪音」は、「騒音」ではない。
冒頭の黒人音楽酒場での話に戻るのだが、しっとりしたジャズにレコード盤のノイズが乗ると雰囲気が大きく広がる。以前何かで読んだ本でレコードのノイズを雨音に例えていたが、正にそんな感じ。こういった効果的なノイズを「噪音」と呼んで良いのかもしれないと思った。Wikipedia の「倍音」の項目に説明があるのだが、和楽器などの民族楽器で重要視される音である。音楽的に効果のあるノイズ、心地の良いノイズとでも言ったら良いか。再発される過去の名曲、プレイヤーが目の前で演奏しているかのようなみずみずしさで聴かせてくれるのもいいけど、レコード盤に針を乗せて聴くのも良いものだ。

2011年2月20日日曜日

近況

前回の投稿から1ヶ月がとうに過ぎて、かけあしで振り返る。

音楽の複数次元 ジョン・ケージ『ヴァリエーションズVII』
1月29日と30日に行われたコンサートで、世界中の音をリアルタイムに収集・選択・ミックスして聴かせる作品が上演された。事前に出演者から「音」を募集するメールを頂いていたので、29日は会場で鑑賞、30日の日曜日に提供者として参加した。ここで言う音の提供とは USTREAM を使った音の送信で、私は東京競馬場へと出かけた。賭け事はしない質で競馬場に行く事自体が初めての事なのだが、独特の雰囲気が伝わればいいなと。
会場では中心にステージというか作業スペースが据えられ、コイルや水槽、ジューサーに扇風機といった物で雑然としたところを演奏者が思い思いに行き来する。観客はそのまわりを自由に歩き回れたのだが、私は遅れそうになって走って到着したので疲れていたこともあり、座布団にドッカと座って定点観測と決め込んだ。すると、スピーカーの方が目の前に近づけられて、時折爆音を聴くことに。
この作品の肝は、いかに音を集めるか、および、どのようにミックスするかにかかっている。後で知ったのだが、ステージ上に置かれた家電は出来る限り作曲された当時の1960年代の物が集められたそう。それらを使って目の前で行われている行為と直結した音が聞こえたり、聞こえなかったり、目の前にスピーカーが来た時にかすかに鳴っていた音が、テレビやラジオの音なのか、誰かが USTREAM で送ってきた音なのか、そういった事が漠然としたまま身を任せる感覚。SF やファンタジー、オーディオマニアの評論だったら身体感覚が拡散して世界と一体になるところだが、街の雑踏とも違う音の洪水で、ただただ面白かった。最後に付け加えると、競馬場から送った音がいつ拾われてどんな音量で再生されるのかは分からなかったのだが、後で聞いたところによると、ファンファーレが鳴り響いたそうである。してやったり。

プロジェクト5 研究シンポジウム・シリーズ vol.3《方法論としての音楽》
これは近頃特に気になっていた事で、作曲者が一音一音指定するのではなく、ほとんどの事を演奏者に任せる類の図形楽譜についての話と、その延長線上で音楽と言いつつ音として認識できない作品が生まれて、それとどう向かい合ったら良いか、パフォーマンス付きでお話が聞ける機会となった。向き合い方についてはだんだん折り合いがつけられるようになって来たのだが、作曲者が出音について興味がない(ニュアンスは『積極的に関わらない』)という話はショックだった。方法マシンに参加していながら何言ってるのか、と思われるだろうが、割合で言えば楽器の指定がある音楽らしい作品の方が多かったように思う。シンポジウムのパフォーマンスも「音楽の臨界点とその外部」との文言にほぼ偽りなく、ギリギリのところを感じた。それで結局未だに「音と関係ない音楽」にモヤモヤしているのだが、それはやはり私が楽器が好きという嗜好から来るしりごみだと思っている。ただし、その嗜好を掘り下げると銃器マニアや機械式カメラマニアだった時期もあり、何というか、カチャカチャと手を動かして結果が出る物が好きで、楽器にこだわらなくなる日が来るかも知れず、その時に自分は何をやろうとするのかが気になる。

あと、昨晩に即興演奏の録音をした。
http://soundcloud.com/yeemyu/20110219-1

その前日に江古田のフライングティーポットで、飛び入りでセッションに参加させて頂いてシンセ(エレピがメインで SawWave も少々)で音を出したのだが、やはり楽しい!