ある酒席にて
先日、ネット上で氾濫している批評を指して、本来批評とはそんなもんじゃないだろうという話題が挙がった。些細な事であっても即ネットワークに乗せられる昨今、批評と言いつつもそこに思慮が欠けてるんじゃないか、というもの。映画にしろ音楽にしろ浮沈に関わるが、その感想やら何やら書いて人に見せるのが気楽になって、無邪気と言えば無邪気だけれども、それに「批評」というラベルを付けられたものが問題で、苦くても薬だから飲めたものが、ただの苦い毒だったりするようだ。
36歳になって司馬遼太郎を初めて読んだ
食わず嫌いしていた司馬遼太郎を、誕生日が同じという理由で読み始めて、つい最近2作目を読み終えた。ちなみに1作目は「最後の将軍」、2作目は「覇王の家」。結果的にとはいえ、徳川幕府の最初と最後だけを逆順に読むという暴挙である。
司馬遼太郎という名前だけはよく見聞きする。そして、作品を読む前は小説だと思っていた。時代背景に沿って何某がこんな事をしたという史実を、渋くドラマ仕立てに書き上げたものなのだろうと。NHKが毎週日曜日の夜に放映している番組を大河ドラマと言っているわけだし。ところが実際に読んでみると、この作品の魅力はドラマチックな文章にあるのではなく、司馬遼太郎の批評眼にあるのがわかった。人物評、政治評、戦術評が織り交ぜられている。ドラマは読んだ私の頭の中で勝手に出来上がっていく。「なるほど、そういう事か!」と驚いた(どんだけ今更)。
ひとつテーマがあるので自分でも書いてみる
よしじゃあ自分でも書いてみよう!と思い立つ。まずはっきりさせておきたいのは、「批評」と「批判」の違い。調べてみると両方ともほぼ同じ意味だったのが、習慣で「批判」の方がネガティブな文脈にしか使われなくなっている現状がある。それがどうも私の印象だと、「批」の字に引きずられて「批評」もネガティブな事を書けば良いもんだという雰囲気がある。冒頭で「そんなもんじゃない」と話していたのがその点で、それには抗って、良し悪し両面を忠実に書きたいと思っている。後ほどか、後日か、ここに追記して添付する形で公開してみたい。
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